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家族ごっこ 〜家族はすべてか〜

目次

はじめに

家族は助け合って生きていく仲間だと思える人は、恵まれた人だと思います。最近「親ガチャ」に当たった、ハズレたという言い方を目にすることがありますが、子どもは、親を選べません。生まれてくるときに自分で選んでその親の元に生まれたという考え方もありますが、ハズレたと思っている人は、後悔や恨みなどの気持ちのやり場がない人だと思います。

秘密を固く守りあう仲間

家族は、閉ざされた世界です。どの家庭にも、その家庭にしか知り得ない事情が多かれ少なかれあるものです。そして、無意識のレベルで外部の他者に公言しないことを示しあっていることもあります。逆に、外部から見ればその家庭のその秘密(とは問題であることが多い)は全く感じられず、穏やかな家庭にしか見受けられないことが多いのも事実です。

家族を考えることは自分を考えること

なぜ、その家族についてここで考えようとしているのかというと、それが自分の生き方と大きく関わってくるからです。家族に囚われて一生を終えるのか、家族に愛されながら自由に羽ばたいて生きることができるのか。それは大きな違いです。カゴの中の鳥と、大海を渡る鳥ほどの違いがあります。いずれも好みです。好みですが、その好みを思い込まされているという場合、つまり、自分の本当の意思とは反するものだと気づいた時、あなたはその親に怒り、絶望し、再起を誓うと思います。自立の始まりです。

しかし、そうとは気づけない人が多い。それは、親は素晴らしいと思い込んでいるのです。人を上下関係で見ることが常態化していて、対等な関係で見ることができない人にそういう意識の人が多いように思います。上下関係で見るとは、極端に萎縮したり、極端に横柄な態度に出ることのある人と言ってもいいと思います。フラットな目で見ることができれば、親も人間であり、いいところもあれば、劣っているところもある。子どもに対して劣っているとは、子育てにおいて、精神的な未成熟さを露呈しているということです。

「心のおむつを脱げない親」

それは、「心のおむつを脱げない親」と言えます。おむつはおおむね幼少期のどこかで外れるものです。ですから、その心を引きずっているのが「心のおむつを脱げない親」です。あくまでも「心のおむつ」です。肉体的には、病気や介護などでおむつをすることはあり得ます。しかし、心のおむつは、やはり年齢相応で外れていることが、精神的な成熟を意味します。

幼児は当たり前に「愛されたい」「わがままを聞いて欲しい」「自分の欲望を察して満たして欲しい」という気持ちを持っています。要は無条件に愛されたいのです。泣いても、泣いた自分を受け止め、抱きしめてもらいたい。それが親の年齢にもなれば、そうともいかない。子どものように甘えるのは格好が悪いから、幼児の甘えを違う言動で表します。それが、子どもを自分の元に縛り付けておきたいという意識だという場合もあります。

年齢は40歳、50歳それ以上でも、一人にしてほしくないのです。子どもがそばにいてくれないと安心できない。子どもは自分のものだ。口では「自由にどこでも行っておいで」と言ったとしても、態度は誤魔化せない。どこか寂しそうで、頼りなさそうで、不安そうな、生きる力強さを欠く姿を見せています。その子もまた、そのような親に育てられた場合、親子で依存しあっていることが多いので、やはりそういう親の姿を敏感に感じ取り、双方が暗に縛りあっている。「ニッチもサッチもいかない」とはこのことでしょう。

「心のおむつを脱げない親」に真っ正直に付き合う子ども

僕自身を振り返ると、そうであったように思います。「心のおむつを脱げない親」は、とにかく自分が親として立派であるということを示すのに必死だったと思います。ここで言う立派とは、親自身の信じている立派さです。お勉強ができる、お行儀が良い、無理を言わない。子どもは多かれ少なかれわがままなものですから、そういう親は押さえ込みます。言葉や態度だけではありません。昭和の親にとって、暴力も躊躇ない選択肢の一つでした。友達が遊びにきても、親が遊んで欲しくないと思っていた子どもとは遊ばせてもらえませんでした。(ごめんね、ゆみちゃん)

そういう親に反抗できなかったのは、まだ10歳にも満たない年齢だったということと、衣食住の全てを依存している親に反抗することは、生命の危機に晒す行為だということを暗に意識していたからだと思います。そんな親にでも絶対服従をしながら育ってきたように思います。親に依存し、しかしその親は満足に無条件の愛を与えてくれるわけではない。親の思う通りの子が「いい子」であり、僕はその「いい子」を演じることを無意識のレベルで覚えました。

演じる家族

演じる子は、どこまでも演じます。演じなくてはいけない「状況」が変わらない限り、演じ続けます。年齢は関係なく、自分と親との関係性を一新しない限り、70歳でも80歳でも演じ続けます。その心根は、親に無条件に愛されたいという、もはや叶わない幻の希望を抱えています。家族ぐるみで、互いの均衡を保つために演技をしているのです。演技の起点は、「心のおむつを脱げない親」です。そこに合わせるように子どもが生きている。本当の自分の気持ちを感じることなく、ただ親の要求や期待に沿うように子どもは生きているのです。そして、自分が親になったら子どもに同じことをやってしまう。世代を超えて繰り返すのです。親が死んでもなお、気づきがなければ、心のオムツを脱げないまま親からの愛を虚しく求めつづけるのです。

気づいてようやく「ごっこ」と言える

渦中の本人たちは、至って真剣です。演じることに何の迷いもなく、「そうすべきだ」と思い込んで、大真面目にやっています。しかし、誰かが生きづらさから自分を振り返ってみたり、その家族のありようを他者にしゃべったりして「おかしんじゃない?」と言われた時、演技に綻びが出る。自分は、「心のおむつを脱げない親」にいいようにされていたんだと気づく。または、自分は親から精神的に自立できてなかったんだと気づく。気づいて、自分を客観的に見ることができて初めて「家族ごっこ」をやっていたんだと思えるのです。

伴う痛み

この気づきは、痛みを伴う場合が多い。これまでの家族ごっこでは親は素晴らしい人で、尊敬に値する設定だからです。だからこそ、あなたは一生懸命親に尽くし、言われる通りにやっていた。その親を疑い、否定し、「心のおむつを脱げない親」だと認定することは、太陽が西から昇ことと同じくらいの衝撃でしょう。気づきのきっかけとなる違和感や生きづらさは、「親の要求を満たしながら生きなくてはならない」という気持ちと、「自分の感じるまま、思うままを自由に生きたい」という気持ちとの綱引きです。その葛藤が、知らず知らずのうちに今まであなたのエネルギーを奪っていたのです。

おわりに(チェックシート)

自分は、親の前で「いい子」を演じていると思う気づきは、例えば、

  • 親の前で本音が言えない
  • 親の顔色を伺ってしまう
  • 親のことが好きだと思っているが、その存在がストレスでもある
  • 親と接するときに、イライラする
  • 親または周りの人に激昂することがある
  • 親または周りの人に極端に萎縮することがある

などから気づくことになると思います。

気づきの後には、やはり憎しみがくるものです。その感情を味わい尽くしたなら、それは親を批判してバッサリ切るということも一つですが、その先には自分も親と同じ弱さや欠点を持った同じ人間なんだと思える時がきます。そこから、親の抱えていた闇を探り、自分も同じだと我がごととして回収できれば、結局は演じなくていい家族になってゆきます。この辺りのことは、別の機会に詳しくお話ししたいと思います。

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わたし(この記事の著者:香山)は、OSアカデミアという国語の学習塾を主宰しています。テストの点数を上げるためということは一つの目的ですが、それ以上に子どもたちの心の様子を、言葉を軸に感じ取り、言葉から生き方を整えることを大切に考えて指導しています。オンライン受講も可能です。ご興味のある方は、ぜひホームページの「お問い合わせ」からお気軽にどうぞ!

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この記事を書いた人

15歳の自分が出会いたかったブログ

30年前の自分に「もっと柔軟で愛に満ちた考えをもて!」と言いたい。勉強の本質も見えてなく、闇雲に漫然とやってしまったが、正しく学ぶことと、自由に発想し考えることを区別して、伸び伸びと学びたかった。何がわかっていたらそうできたかを振り返って、中高生に、そしてその親御さんにも向けて情報発信します。

そう思うに至ったおよそ30年の間、コピーライター、クリエイティブディレクターとして、広告主の商品やサービスにおけるメッセージを見出し、言語化したり、社長インタビューを文章化したりしてトップメッセージを書くことなどを生業としてきました。受賞歴として、宣伝会議賞(NTTドコモ)、朝日広告賞(NTTドコモ)、C-1グランプリ(東京コピーライターズクラブ主催)ほか。

その傍ら、国語の学習塾を主宰し、子どもと向き合う経験も通して、生きてくためには「気持ちの言語化」が大切だと気づく。言葉は、感情と思考の結果で、言葉の選択は未来の選択との思いから、広告や学習を超えて、「生きてく」という観点で言葉と向きあい、経験に基づいた情報を公開してまいります。

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