はじめに
気持ちを言葉にすることに対して
1)たやすいことだと思う人
2)できると感じているが、実は人から期待されている言葉を口にする人
3)非常な困難を伴う人
大きく3つのタイプに分けられると思います。
この記事は、主に2)と3)の人に向けて書きました。

3)の人はまだいいのですが、2)の人は自分の中に「気づき」が必要で、その後、できていないと「認めること」も必要です。
まずは読んでみてください。
この記事を読まれた全ての人が、自分の素直な気持ちを言葉にできることによって精神の成熟が為され、本音で人付き合いができるように、つまり心と心の触れ合いを通して愛し、愛されている実感がわくことを願っています。
「自分」はどうやって出来上がっていくのだろう?
自分がない人は、人に迎合する。八方美人である。我慢する。自分を抑える。本当の気持ちが言えない。偽りの自分で人と接する。偽りとは、自分はそうは思っていないけど、そう思うのが望ましいという自分を演じること。そこには「こうあるべきだ」という「べき論」が全てに優先しています。だから、本音がない。本音で人と触れ合えないから、寂しい。寂しいのは、本当の自分を隠して人と接するから。そこに心と心の触れ合いがないのです。本音を言うことができて、自分の弱みも全て丸ごと人に受け入れてもらえた時、私たちは自分の確かさを実感できる。「これでいいのだ」と心の中で小さくガッツポーズをする。
自分の気持ちを言えない子ども
僕自身、本当の自分の気持ちを親に言えない子どもでした。「食べたいものはあるか」と聞かれたら、なるべく手間とお金のかからないものを考えて、母親の喜びそうなものを発言した。牛肉は高いので、イワシやサンマ(数十年前はどちらも安かった)という具合に。それは母親にそうしろと言われて、そうしたのではない。日頃の母親の姿を見ていて、そうしようと勝手に思ったのです。
例えば、一生懸命に倹約をしている姿、高いものを口にして渋られた姿、義務感から食事を作っている姿。美味しいものを、美味しいから子どもに食べさせてやりたいという姿勢ではなく、母親として外食をさせることは手抜きで、何があっても子どもために作らなくてはならないという義務感。(作りたくない時は、一緒に外食を楽しめば良いと思う。それは手抜きとは違うのではないか)。そこには楽しさは感じ取れなかった。
「べき論」を生きようと、自分に鞭を打って台所に立つ母の姿があった。それを見た僕は、できるだけ母親に金銭的にも肉体的にも負担を掛けない食事を欲しがろうと思った。なぜなら、母親が大好きだからだ。でも、そんな風に自分自身の気持ちを殺した経験が記憶に残っている。それは、それ以前に親の言う通りにしなければ、不快な思いをあらわにされたからだと思う。ときに体罰さえ与えられたこともあった。

食事に関して言えば、これは負の連鎖だ。美味しいものを楽しい気分で食べるから、気持ちが満たされ、人にも与えようと思える。人に与えようとは、自分も作ってみようと思って料理に挑戦してみるようになる。鼻歌を歌いながらウキウキと「美味しいものができるよ!」と言いながら料理を楽しむ母親の姿は、最高のご馳走だ。それが不味ければ、不味いと正直な感想が言えて、辛すぎるとか、この味が余計だとか言えることは、正直な自分の気持ちを言語化できている一つの姿だ。その発言の根底に喜びと感謝があればこそ、その批判は母親に対する愛の言葉になる。
親は子どもにとって全宇宙
そんな親なんて無視して、自由に生きれば良いというのは、大人の理屈で、幼い子どもは、衣食住を守ってくれる親は、生きる全てだと思う。親の機嫌を損なわせて「出ていけ!」と言われた時の恐怖感は、今でも覚えている。泣き叫び、扉にしがみついた。あの時の指先に入った力を、なんとなく体が覚えている。お母さんに捨てられたらどうしよう! この家を出て行ったら自分はどうなるのだろう? 不安よりも恐怖が大きかったように思う。記憶では、それほど酷いことをやって「出ていけ!」と言われたのではないと思う。親の言いつけ通りに何かをしなかったことが理由だったのではないかと思うが、親の言う通りに従わなければならないと絶対服従を誓うには、不足のない出来事だったように思う。

子どもよりも自分を愛して欲しい親
あれから四半世紀以上経った今だからわかるが、精神的に未熟な親、自分の気分で子どもに当たる親、子どもの気持ちよりも自分の気分を優先する親、子どもの気持ちよりも「べき論」を生きることを優先する親などは、誰でもこういう過ちを犯す。そして、世の中には、このような親で溢れている。自分を振り返っても同じだと反省が絶えない。
心は言葉に現れる
子どもの心は、幼少期の親とのキャッチボールで形成されるように思う。心は言葉になって現れる。「素直な感じたままの言葉」か「言うべき言葉」「望ましい言葉」か。先の料理でもそうだ。「今日の夕飯は何にしよう」と忖度なしに母親に相談できる子どもは、愛されている子どもである。食卓に並べられたものを食べたくない場合、体調が悪い場合は理解をする親は多いと思われるけれども、好き嫌いで食べたくないと言われた場合、「作ったものを欲しくないと言われるとお母さんも悲しいよ」と本音で対話ができる関係は素敵。親を傷つけていい訳ではなく、どう感じるから悲しく思うのかを親子で学ぶ機会になり得る。こういう意識を親の側が持つことが大事。
しかし、そう言われると激怒して「もう食べなくていい」と口を利かなくなる親は、自分がまだ子どもなのだ。やったことを褒めて欲しい。料理を褒めて欲しい。なぜなら、やりたくないことをやったからだ。自分が作りたくて作ったのではない。子どもを無償の愛で包む行為の一つに料理があり、子どものために作ることができるのは喜びだ。気に入って食べてくれたら嬉しいが、気に入ってくれなくてもそれは仕方ない。子どもにも気分があるし好みもある。それがわかるだけでも良いと思える親は、精神の成熟をしている親であり、自分がある。子どもの言動に自分が左右されない。ましてや、子どもからの評価で自尊心は決まらないことは当たり前だと思っている。
本当の気持ちを素直に言えない代わりに…
子どもの素直な気持ちを知りたくない親は、いないと思う。精神的に未成熟の親でも、それは知りたいと思うはずだ。または、本心を隠して欲しくないくらいは思うと思う。それでも、隠させ、嘘をつかせているのは、親の方だ。子どもは誰でも本音を言いたいものだし、それは多少のワガママであるものだ。
しかし、親が不機嫌にならない程度の発言を心がけ、本心を隠し、自分の素直な気持ちを殺す子どもは、後を絶たない。ありのままを愛されていない子どもだ。この愛情のバケツは、親しか満たすことができないと経験上思う。親が満たせない場合は、子どもが大きくなるにつれて、去勢を張ったり、見栄を張ったり、自分をよく見せようとする言動に出るように思う。大人になれば、名誉や権力にすがるのは、この代償行為と言えるように思う。

「いい子」は疲れる
わたしが主宰している国語専門の学習塾OSアカデミアでは、気持ちの言語化が大事だと言っている。親に抑圧され、親に従っているように見える「いい子」ほど、本音を無意識に隠しているように見受けられる。その鎧を取ることは容易ではない。その子の生存がかかっているからだ。衣食住を満たしてくれる親に逆らうことは、子どもにとって死を意味する。自分の気持ちを殺して生き延びるのは、合理的な行為だ。しかし、覇気がなく、生きることに疲れているのが彼らの特徴だ。本心を言いたいのに言えない親を憎み、それでも憎んでいる対象に愛されたい。この葛藤にエネルギーを消耗し、疲れる。僕は、中学生のころ、いつも疲れていた。自分の部屋に籠ると、ホッとしてうたた寝ばかりしていた。
愛してくれる親はいなかったのだ!
ありのままの自分を愛してくれる親ではないのだ、自分の親は。そう思うしかなかった。それを認めた時、葛藤が消える。相反する欲望の一方が消えるからだ。そして、自分で自分を愛そうとしたし、本当の自分を受け止めてくれる人との付き合いを大切にした。
逆に、見栄や名誉などに寄ってくる人に興味を失った。付き合う人が変わり、自分の気持ちが少しずつ楽になるのがわかった。もう頑張らなくていいんだと思った。そのような過程を経て、死んでいた自分の気持ちという土壌に、小さな小さな芽が出てくるのを実感した。完全に気持ちは死んではいなかったのだ。その芽は、言葉であり、気力であり、自分に対する優しさだった。
言葉は人を救う。しかし、素直な言葉に辿り着くまでは果てしないこともまた事実だ。気持ちの言語化が大事だとは言え、このような果てしない道程があることも経験として知っている。ただ、ありのままの姿に寄り添い、受け止め、愛の眼差しを向けてやることしかできないが、それが太陽であるとも思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。素直な気持ちを言葉にすることが苦手だと自覚できた人には、「気持ちのレッスン」もおすすめです。ぜひ自分の心の声に耳を傾けてください。それはあなた以外、誰も聴くことのできない声です。
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